蝌蚪型土偶

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蝌蚪型土偶

蝌蚪(かと)・・・オタマジャクシの別称

北海道百年記念塔の足元には、塔を取り囲むように六角形の浅い堀があった。堀の水面に反射する影は、地中へと向かうもう一つの塔に見えた。

2018年の夏、はじめて私が塔の足元を訪れた日、堀にはたくさんのオタマジャクシがいた。

春先に孵化したエゾアカガエルかと思われる。
水面を風が揺らし、地中に向かう塔は小波のさざめきの中に消えて、また現れた。
2020年の夏、オタマジャクシの動きをスケッチするために塔を訪れた。
塔の周りの堀や水路からは水が抜かれ、茶けた植物がちょろちょろと生えているばかりだった。見上げる塔は根を失った草のようだった。

オタマジャクシたちはどこへ行ったのか。生き物は逃れ去る。原生林の中の小さな水たまりに再定住して、また風雪の後の春を言祝ぐのだろう。

オタマジャクシの像を採取し損ねた私は、オタマジャクシの土偶を焼いた。庭でオタマジャクシの土偶をどんどん作る。
あるものは金銭で売買される。あるものは交流の証に贈与される。あるものは遺失物として地上に放置される(その上に降り積もる何らかの堆積物)。

一万年後に「だれか」がこの地を訪れたとして、その地に「わたしたち」は、多分もういない。(一万年前の「だれか」を「わたしたち」と呼ぶことへの違和)
「だれか」に発見されるのは、エゾアカガエルのおたまじゃくしが先か、蝌蚪型土偶が先か。

2020年
森本めぐみ






小樽市立文学館で開催された企画展「竣工50年 北海道百年記念塔展 井口健と『塔を下から組む』」(2020年10月3日~11月29日・会期終了)で展示した「蝌蚪型土偶」に添えたテキストです。


写真:小樽市立小樽文学館・企画展「竣工50年 北海道百年記念塔展 井口健と『塔を下から組む』」より
(撮影・伊藤留美子)


略歴

森本 めぐみ Morimoto Megumi

1987 北海道出身
2008 札幌市立高等専門学校インダストリアルデザイン学科工芸デザイン専攻 卒業
2011 北海道教育大学岩見沢校教育学部芸術課程 卒業

<主な個展・グループ展>
2019  グループ展「Nameless landscape」札幌市民交流プラザ(札幌)
2018  グループ展「塔を下から組む」ギャラリー門馬(札幌)
2016  個展「百年の予定」テンポラリースペース(札幌)
2015  個展「遠くの星へ、やまびこへ、わたしはここにいます」琉球大学(沖縄)
2013  グループ展「生息と制作」新宿眼科画廊(東京)※大下裕司氏との共催
2012  個展「布団山/Hollow mountain」salon cojica(札幌)
2011  グループ展「居間-living room」札幌市資料館(札幌)
2009  グループ展「雪国の華ーN40°以北の日本の作家たち」Vanguard Gallery(中国・上海)

<受賞>
2008  「TURNER ACRYL AWARD 2008 学生の部」 大賞



<関連WEBページ(外部リンク)>
ACRYL AWARD 2008 - ターナー色彩


posted by Megumi Morimoto at 10:56Comment(0)略歴

加藤巧・鈴木雅明・鈴木悠哉・山本雄基「Grafting 接ぎ木」

ペインティング〜ドローイング系作家4人の展示。
出展作家の一人である鈴木雅明さんが、個人的に絵画を制作する中で感じていた課題に呼応しそうな作品を作る作家として個別に声をかけて実現したものだそうです。
それで札幌出身の鈴木悠哉さんと山本雄基さんが俎上にのってきてしまうのが、なんか面白い。


育児期間中でチューブ絵の具というインスタントな画材ですら扱いが難しくなっている自分にとっては、フレスコ技法のような本来的に絵の具にアクセスするためにあったハードルをもう一度自分に課す加藤さんの作品は特に興味深かった。
少しだけお話しする機会があり不定形な支持体がレディーメイドなのかどうか気になって聞いてみたら、日用品を組み合わせたり、自分で作った形を樹脂で固め、樹脂が固まった後にそれを取り出したものを支持体にしているとのこと。
「あー、中空じゃないと壁にかからないですよね」みたいなことを私が言ったら「最低限のサービスとして壁にかけられるように(1cmくらいの隙間を指で作って)これくらいの幅は内部に持たせてますけどね」と言っていた。

元々フレスコ画は壁画の技法という認識だったので、加藤さんの「最低限のサービス」という言葉には、壁から切り離して流通可能になってる絵画の形式についての葛藤?みたいなものが含まれてるのかなあ・・・と勝手に憶測。
個人的にはもしもう少しお話しできていたら顔料の流通や採掘、入手方法について、調合以前の調達方法の話を聞きたかったのでした。
(絵の具へのハードルという意味では、調合の困難さの前に調達の困難さがあると、どうしても田舎出身者としては思ってしまうから)


鈴木雅明さんの絵も面白かった。
最初に観た時、ヴォルフガング・ティルマンスの丸めた色紙や、水の中に落としたインクを写したタイプの写真を連想した。
絵を観ているだけだと実際にそういう状況を作って描いたのか、それとも記憶や資料をもとに影のつき方などをシミュレーションして(私はこっちが多い)描いているのかわからなかったので尋ねてみました。
鈴木さんは前者で、机上で作った抽象的なモチーフを組んで、それをモデルに見ながら絵を描いているそうです。

昨年お子さんが生まれたそうで、日本画を描いている奥さんも苦労している・・・というような世間話などして、日本画・・・そりゃ大変そうだなあ・・・と思うとともに、どうやって制作環境を作っているのかお話聞いてみたいと思ったのでした。

総じて絵を見ながら、やっぱりペタペタ絵の具を塗る絵は、実際にその人の目の前で起きてることを描こうとしたのか、頭の中にあるものを描こうとしたのか、曖昧さが高いのがいいところよねー・・・みたいなことを思った。

アナログ画材(Ex.チューブ絵の具)とデジタル画材(Ex.Adobe製品)については、手元の端末からアプリで絵を描くことが普通にできることになっている現状、差がつきにくくなってるとは思うけど、それでもそこがいちばんの絵と写真との違いだなあ、、なんか、私の中では。


日時:8月24日~9月16日(月・祝)の金土日のみ
場所:なえぼのアートスタジオ
posted by Megumi Morimoto at 03:41Comment(0)日記

山本雄基・浦川大志展 Flatten Image

夫と娘と一緒に、最終日に行ってきました。

(変な感想だけど)はじめて実物をみた浦川さんの絵、カオスラウンジ出身ということでか、ネットでは梅ラボさんと色々と比較されるところもセットで拝見していたけれど、実際にはそんなに梅ラボさんっぽさを感じないな・・・というのが第一印象。

それでも梅ラボさんの作品と比べると、画像をキャプチャする収集者というよりは、ネット上の画像を模倣して組み合わせて描くネット絵師の作品であることが明確に感じられる。
それを身体的な実感に落とし込むために、スマホを大きくして絵の具で描いてる感じがした。
インターネット空間を描くというよりは、インターネット空間に触れている身体を描こうという意識が、(当然それは梅ラボさんの作品にもあるものだと思うけれど)梅ラボさん以上にあるように感じる。
(私は18の時にベニヤ板にアクリル絵の具で絵を描き始めるまでは、基本的にお絵かき掲示板のコミュニティーに浸かって絵を描いていたし、今の自分が会社員の業務としてやっているCGイラストレーター寄りの仕事との関係もあって、共感度が高いんだと思う。)

画面の縦横比が大体縦長でスマホっぽい比率だったので、会場にいた山本さんに尋ねてみたら、やっぱりそれは意識されていた。
スマホをいじるときに使う親指の第一関節を絵を描くときに使う上腕部に置き換えたときに、スマホに相当するくらいの大きさに画面を設定しているということだった。
ああ、なるほど・・・と、個人的にはそれで一番腑に落ちた気がする。
浦川さんの体は絵を描くとき、右手(左利きかもしれないけど)になっているんだなあ。
小さい作品はまとまっていて可愛いし、コレクション欲を刺激するものだと思うけど「大きい画面にすごく素早く描く」と、門馬さんも山本さんも感心していたところに、持ち味の一番濃い部分が出ているんじゃないかなあ・・・

普段、私は会社でペンタブレットとPhotoshopで絵を描いている。
その時の意識は、画面の中で拡大、縮小の間を行き来できる「目を持った絵筆としての身体」になりきっている。
でもふと画面から意識を話すと、手元はA4くらいの大きさのペンタブレットの上でちまちました動きをしていて、慣れとして意識に上ってこなかったギャップ感に引き戻されることがある。
似た経験はスマホのお絵かきアプリでもある。
むしろペンタブレットより描画面は小さくなっているからより強烈だ。
そういうギャップを埋めるようなところに、大きな模擬スマホ画面に絵を描く快感があるのかなあ。


余談だけどしばらく2DCGから離れていた自分にとって最近のPhotoshopの進化は驚きで、ブラシ(筆)に含ませたインクの流れ具合やインク切れまで設定できるようになっている。「減らない絵の具」というのは、2DCGの大きな特徴の一つではあるけれど、擬似的に「減る絵の具」という概念を持ち込むことで、筆致にリアリティーが出ることを興味深く感じる。


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すごい余談。
山本さんがその日自分が着ていたリアルなちくわのイラストTシャツをすごく推して語ってくれた。
実際いいTシャツだったので、私も今度から展覧会には変わったイケてるTシャツを着ていきたいと、強く思った。

そのTシャツを目にした後から浦川さんの多用するシワシワしたグラデーションのストロークがちくわみたいにみえてきて、あ、それでこの二人のグループ展なのか、という間違った解釈が発生した。
(参考:昔山本さんが、道展に出した他の絵と作風が違いすぎる「スーサイドちくわ」


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日時:8月17日~9月1日(日)午前11時~午後7時
場所:ギャラリー門馬






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アーティストトーク! アーティストがみた北海道と 炭鉱・夕張とはなにか。

18:30~21:00とちょっと遅い時間だったので躊躇したけど、少し早めに晩御飯を食べさせて夫と子供と一緒に天神山へ。

ざっくり会場を見渡してみると、お客さんはアーティストは少なくて空知管内の炭鉱遺産や地域アート関係者が多い感じ。

トークゲストとして永岡大輔さん(アーティスト)、山口一樹さん(写真家、キュレーター)、聞き手は加藤康子さん(北海道大学大学院 メディア・コミュニケーション研究院)。



前半は山口さん、永岡さんの活動の紹介。

山口さんは富山県出身で、高校時代に東川町の写真コンクールで北海道を訪れたのが初めての来道。
(詳しいきさつを聞き逃しましたが)現在は社会教育主事として夕張市に務めながら、写真家としての活動を継続しています。
彼が撮影・編集した「暮らしと創造」という写真集を見せてもらいました。
夕張に暮らしている人たちが作ってきたパッチワークや短歌を淡々と撮り下ろすことで、廃坑・経営破綻の町、という夕張の歴史にパッケージングされない現在を写す(すると今度は炭鉱の存在がまた奥から染み出してくるような)本でした。

永岡さんは山形県の出身で2012年のトーキョーワンダーサイト・アーティスト・イン・夕張から、継続的に夕張に通い続けて作品制作やプロジェクトを行なっているアーティストです。彼はそれが初めての来道だったそうで「北海道といえば大きな平原のような地形を漠然とイメージしていたが、夕張は細長くて自分が生まれた山形の地形にむしろ近いものを感じた」と言っていました。確かに国や都道府県とかじゃなく「山間」とか「浜辺」とかでくくれる地域性があるよな〜。
基本的にはアーティストインレジデンス制度を利用するアーティストは一つの地域に一回限りの来訪で終わるケースが多いそうです。
永岡さんのように制度利用後も通い続けるのはちょっと特異な例ではないでしょうか(多くのアーティストを受け入れて来た天神山の小田井さんもそのようには言っていました。)

「地域のアーティスト」としての自我を持ちつつ公務員として夕張の地元住民になった山口さんと、各地でプロジェクトを行いながら夕張に通っている永岡さんでは地域に残る作品の保存についての語口の違いが興味深い。

山口さんは「アーティストと協働した時の楽しい記憶は残るが、経年変化で管理しきれなくなったり、興奮が覚めた後に解釈が変わっていく作品の姿を地域住民として観ていくことの辛さもある。アーティストが作って終わりという関係性になってしまうことが多いのであれば、管理しきれないことを視野に入れた作品の前後のデザインが必要では?」という提案をしていた。
この「アーティストの責任の取れなさ」については、現在も夕張での制作拠点作りのプロジェクトを進めたがっている永岡さんは(もちろん外野の自分以上に)痛感しているのだろうということは感じられたけれど、どちらかというと「作品として劣化しても痕跡を観て、当時を懐かしんでもらうこと」の方に永岡さんの力点があるように感じられた(そして山口さんも、もちろんそれ自体を否定しているわけではないと思う)。


二人の夕張への接し方から、なんとなく泉鏡花の戯曲「夜叉ヶ池」を思い出す。
池のほとりに移り住んだ萩原晃は妻とともに池に沈み、諸国を渡り歩く山沢学円が語り部(萩原と山沢は共に、元々は地方の民話の「採集者」であり「よそ者」である)として生き残る構図のことをぼんやりと思い出してしまった。(これはエンドの一つでしかないけど)

福井県に移住していた5年間、「メガネの修理屋さん」と「夫の妻」と「河和田町の住民」のパーソナリティーで生きていて、美術作家として自分のいる地域の作品は全く作ることができず、札幌に帰ってきてからようやく作ったことだとかを思い出したり・・・
なので、個人的には少しずつ地域住民性を内面化していく山口さんの立場に共感がありましたが、それだけでは広げていくことができない(夕張の人々は記録冊子ができたりすると、市外の知り合いに配ったりして広めることに関心が高いそうです)ものも感じている。



オーディエンスの色の影響もあるのか、個別の夕張での地域住民とのエピソード(ひとつひとつはとても興味深く、男子への家庭科教育のはしりに炭鉱事故で親をなくした子供達に向けて夕張の家庭科教師が始めた授業が関与していたことなどは特に。)が多く、実のところ過疎地への移住経験者として以外の観点からはなかなかトークにのめり込む糸口がつかめないなあ〜・・・と思っていた前半ではあったけれど、個人的には聞き手の加藤さんが喋り始めてからの後半が面白かった。

加藤さんは、札幌都心部で企業が撤退して空きテナントに、ビルオーナーが物件の価値を下げないため/家賃収入を得るための「苦肉の策」として、アーティストや有象無象の団体に場所貸しが行う現象を背景に、都心に様々な属性の人が入り込み界隈性が生まれていく過程を研究しているそうです。
加藤さんの存在があることで夕張の特殊な固有性だけではなく、経済的合理性と人間の幸福感・・・みたいな、普遍性のある話題に発展する糸口がトークの中に生まれたんじゃないだろうか。

もしかすると話を聞いている人の中には「夕張や空知の話をする場じゃないの?」と思っている人もいたかもしれないけど、転がって移動することができる「球体の家」を作ることで、定住することを基準にした労働や経済・都市計画を問い直す永岡さんのプロジェクトがあの場で紹介されたことは結構個人的にはスリリングでおもしろかった。

トークの終わりに永岡さんの「炭鉱が閉山された後京浜や京葉の工業地帯に、集団で就職したりしている人たちがいたりもする。夕張という町から人はいなくなっているけれど、実は(出て行く人がいることで)夕張は広がっているのかもしれない」という言葉と、山口さんが北海道の住民について「多重的パーソナリティー」という言い方をしていたのが印象的だった。

福井県に住んでいたときに大野市のちゃんこ屋の女将さんが話してくれた「北海道から福井県の製糸工場に集団就職してきた女の子たち」の朧な思い出が、本州からそれぞれのやり方で北海道にやってきた彼らの話にオーバーラップして、冒頭永岡さんが北海道にはじめて来た時、フェリーがめちゃくちゃ揺れて苦労した話(そして「こうやって北海道と本州の間を船で行ったり来たりしてきた沢山の人たちが居たんだなあ」という体感的な実感に結びついた話)にもつながるような気がして、色々味のあるトークでした。


開催日時:2019年8月31日土曜日 18:30〜21:00
さっぽろ天神山のFacebookページ:https://www.facebook.com/events/506275616794680/
posted by Megumi Morimoto at 00:20Comment(0)日記

福田 真知「(self)portraitのためのエチュード」

「Nameless landscape」の時に知り合いになった関西周辺で作品を発表している作家さんの展示。

どの作品も、写真を写す行為が起点になっており、額装されたプリントという形態をとっているものがほとんどですが、透明度を上げた連続する画像を積層したり、被撮影者の瞳の中に映る自分の姿をクローズアップしたりと、印刷された平面を観るというよりは「被撮影者ーカメラー私」の間にある空間や時間を表現した彫刻です。
「(self)portraitのためのエチュード」と、括弧づけされているように、他者を撮る行為によって自分の像をつくっているということが、ストレートに伝わってきます。
入り口がわかりやすい。

マルティン・ブーバーの「我と汝」を思い出す。
我は単独では存在できず、我と汝が対話する時、そこに初めて我が現れる・・・とかそんな話じゃなかったか。
違ってるかも。
ビジュアルは穏やかだけど、多分そんな意志を作品からは感じました。


クローバーの生い茂る何の変哲もない草むらを写した写真を白黒コピーで印刷して、緑色の油性(水性だとトナーが溶けちゃうのかな?)ペンで塗りつぶす《time, this time》というシリーズの作品が一番印象的でした。
写真をボールペンで塗りつぶすことで圧がかかった紙がじわじわと凹んでいき、立ち上がるコピー用紙の余白。
よい。
唯一、この作品は額装されずガラステーブルの上に置かれていました。
成安造形大学で学ばれていたのが彫刻だということも頷けます。

図像部分そのものも着色カラー写真のような効果が出ています。
街の風俗が写っているわけでもなく、ただ雑草が写っているその写真はもしかすると明治期に撮られた写真かもしれない・・・という妄想までさせて、とても好きな作品でした。


ちょうどお客さんが多く来ていた時間帯だったようで、会場一番奥のスペースに展示されていた《jewel》という作品は観ることが叶わず。
入り口近くのベンチでエルダーフラワーのジュースを飲んで涼みました。
ハーブを煮詰めたシロップだそうです。
ちょっとだけ作品を飲んでるみたいでした。

会期:2019.07.30(火)〜08.24(土)
略歴・展示概要等:
salon cojica
posted by Megumi Morimoto at 23:57Comment(0)日記

ショーケースの前で(悩むように)2019年1月22日(火)〜1月27日(日)/札幌市資料館(終了)

出身研究室が毎年やっている研究室展兼卒業制作展を観に行った。
自分たちが在籍していた時に比べると、地域史や個人史に基づいた制作をするメンバーは少なく、ストレートに各々の美学を表明している感じがする。

小林怜奈さんや松本実久さんのようなフェミニンな作品もあったけど、それもあまり屈折感はない感じ。
工作物がとても綺麗にできていたので、そのテンションで空間に彫刻を作ろうとおもうと苦戦したのではないかと憶測した。

島田真祈子さんのポートフォリオにあった、馬の額にある模様と似た島に旅をするパフォーマンスは、本当に行ったかどうかを問わず魅力的だと思った。そこで選ばれた馬は島田さんとどんな関係性のある馬なのだろう。
展示作品の「馬馬馬馬馬馬」については、スタイロフォームを有機溶剤で溶かす(体に悪い)制作方法は、馬というモチーフとどうつながっているのか、大量に作る過程に祈りを感じる宗教性の高い感性とかみ合っているのだろうか、という疑問は残る。

中村樹里さんと山田大揮さんは、共に展示室内での鑑賞者の動作を巧みに操作していたと思う。

中村さんの 「みえることについて」では、外光の入る明るい部屋の中に天井からガラス製の大きな釣り針が3つテグスで吊り下げられており、その真下の床に大きな鏡が敷かれている。
何かの謎かけであることは、外から部屋の状況を見た瞬間に感じられる。
鑑賞者が部屋に入り、床におかれた鏡を覗き込むと、鏡には覗き込む鑑賞者自身とその頭上に浮かぶ反転した釣り針=?マークの疑問符が映っている。

山田さんの「他者と共存するためのプラクティス」は窓を締め切った部屋の中に信号機があり、信号機の赤い光で、部屋の中央奥にあるスネアドラムがぼんやり照らされている。
スネアドラムの打面に接するようにカラスの羽が吊るされていて、その仕掛けをよく見ようと近づくと鑑賞者自身の足音が増幅されて(多分)カラスの羽がドラムの表面を擦る音に重ねてスピーカーから聞こえてくる。
スネアドラムの仕掛けに近づくほど足音は大きくなる。
展示室の右奥には大きな塩ビ管が立てかけてあって、これは使われていない展示室のライティングレールに凭れさせることで、空間全体にテンションをかけているものと理解したのだけれど、実は音響的な仕掛けと何か関係があったのだろうか?

中村さんの作品は鏡を覗き込んだ人が「なるほど」という感じでにやっとしながら部屋を出て行ったし、山田さんの作品は小さな子供が行ったり来たりして遊んでいたのが印象的だった。

それらはほとんど振り付けだった
きちんとリードしてもらって踊るというのは心地よい。
一方でうまく操作されすぎると、テンプル・グランディンの設計した家畜施設とか、非常によくアフォーダンスされたWEBサービスを連想して、心地よく操作されることへの不安感もじわっと湧いてくる。
添えられたテキストを読むと、中村さんはそこにちょっと自覚的なのかなという気もする。

鑑賞者を巻き込んで遊ぶような作品が上級生にみられたなかで、閉ざされたアクリルボックスの中で延々湿気を吐き続ける加湿器だとか、羽のない扇風機がうろうろしている2年生の鷲尾幸輝さんの部屋には(本人が意図していたかどうかはわからないけれど)ちょっと批評的なところがあるなと思った。
こうした装置が空気を調整する役割を果たせないまま虚しく動いている部屋に「エリック・カールのはらぺこあおむしと鷲尾幸輝のはらぺこちょうちょう」という作品があったりして、インストールのされ方は唐突すぎるけど、どうしようもなく食べて変態して成虫になってしまう昆虫を描いた絵本(これだって親子間の「空気を調整する装置」だよね。まして、仕掛け絵本。)が視野に入ってくるのは面白かった。

・・・
上手に踊れると楽しい。
街にフィットした自分を感じたり、だれかの期待にこたえる私、とか。
でも、いつでも誰かに踊りを期待されるのはしんどい。

「ショーケースの前で(悩むように)」というタイトルはちょっとよくわかんないし、所詮20代のはじまりを数年共有するにすぎないゼミ生の展示タイトルに過剰な意味合いを読み取ることはおかしなことだけど、なんとなくそんな気分を感じたりはしました。
posted by Megumi Morimoto at 17:16Comment(0)日記