ショーケースの前で(悩むように)2019年1月22日(火)〜1月27日(日)/札幌市資料館(終了)

出身研究室が毎年やっている研究室展兼卒業制作展を観に行った。
自分たちが在籍していた時に比べると、地域史や個人史に基づいた制作をするメンバーは少なく、ストレートに各々の美学を表明している感じがする。

小林怜奈さんや松本実久さんのようなフェミニンな作品もあったけど、それもあまり屈折感はない感じ。
工作物がとても綺麗にできていたので、そのテンションで空間に彫刻を作ろうとおもうと苦戦したのではないかと憶測した。

島田真祈子さんのポートフォリオにあった、馬の額にある模様と似た島に旅をするパフォーマンスは、本当に行ったかどうかを問わず魅力的だと思った。そこで選ばれた馬は島田さんとどんな関係性のある馬なのだろう。
展示作品の「馬馬馬馬馬馬」については、スタイロフォームを有機溶剤で溶かす(体に悪い)制作方法は、馬というモチーフとどうつながっているのか、大量に作る過程に祈りを感じる宗教性の高い感性とかみ合っているのだろうか、という疑問は残る。

中村樹里さんと山田大揮さんは、共に展示室内での鑑賞者の動作を巧みに操作していたと思う。

中村さんの 「みえることについて」では、外光の入る明るい部屋の中に天井からガラス製の大きな釣り針が3つテグスで吊り下げられており、その真下の床に大きな鏡が敷かれている。
何かの謎かけであることは、外から部屋の状況を見た瞬間に感じられる。
鑑賞者が部屋に入り、床におかれた鏡を覗き込むと、鏡には覗き込む鑑賞者自身とその頭上に浮かぶ反転した釣り針=?マークの疑問符が映っている。

山田さんの「他者と共存するためのプラクティス」は窓を締め切った部屋の中に信号機があり、信号機の赤い光で、部屋の中央奥にあるスネアドラムがぼんやり照らされている。
スネアドラムの打面に接するようにカラスの羽が吊るされていて、その仕掛けをよく見ようと近づくと鑑賞者自身の足音が増幅されて(多分)カラスの羽がドラムの表面を擦る音に重ねてスピーカーから聞こえてくる。
スネアドラムの仕掛けに近づくほど足音は大きくなる。
展示室の右奥には大きな塩ビ管が立てかけてあって、これは使われていない展示室のライティングレールに凭れさせることで、空間全体にテンションをかけているものと理解したのだけれど、実は音響的な仕掛けと何か関係があったのだろうか?

中村さんの作品は鏡を覗き込んだ人が「なるほど」という感じでにやっとしながら部屋を出て行ったし、山田さんの作品は小さな子供が行ったり来たりして遊んでいたのが印象的だった。

それらはほとんど振り付けだった
きちんとリードしてもらって踊るというのは心地よい。
一方でうまく操作されすぎると、テンプル・グランディンの設計した家畜施設とか、非常によくアフォーダンスされたWEBサービスを連想して、心地よく操作されることへの不安感もじわっと湧いてくる。
添えられたテキストを読むと、中村さんはそこにちょっと自覚的なのかなという気もする。

鑑賞者を巻き込んで遊ぶような作品が上級生にみられたなかで、閉ざされたアクリルボックスの中で延々湿気を吐き続ける加湿器だとか、羽のない扇風機がうろうろしている2年生の鷲尾幸輝さんの部屋には(本人が意図していたかどうかはわからないけれど)ちょっと批評的なところがあるなと思った。
こうした装置が空気を調整する役割を果たせないまま虚しく動いている部屋に「エリック・カールのはらぺこあおむしと鷲尾幸輝のはらぺこちょうちょう」という作品があったりして、インストールのされ方は唐突すぎるけど、どうしようもなく食べて変態して成虫になってしまう昆虫を描いた絵本(これだって親子間の「空気を調整する装置」だよね。まして、仕掛け絵本。)が視野に入ってくるのは面白かった。

・・・
上手に踊れると楽しい。
街にフィットした自分を感じたり、だれかの期待にこたえる私、とか。
でも、いつでも誰かに踊りを期待されるのはしんどい。

「ショーケースの前で(悩むように)」というタイトルはちょっとよくわかんないし、所詮20代のはじまりを数年共有するにすぎないゼミ生の展示タイトルに過剰な意味合いを読み取ることはおかしなことだけど、なんとなくそんな気分を感じたりはしました。


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